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読み書き

読んだものについての覚書

『草枕』(インクナブラPD)夏目漱石

仮想的な「画工」を狂言回しにした芸術論エッセイ。体裁は一応の筋書を有した小説だが、少なくともこの小説の書き手はエッセイストでしかない。本物の「画工」は労働者だろう。芸でも術でも、観念的な境涯に立つだけで成り立つもんではないのじゃないか。この小説の中の仮想的な「画工」は、飽くまで「見る人」ではあっても「描く人」ではなし。

書き手自身の執筆もその流麗に読める文体の足下に苦心惨憺も潜んでいるのかも知れないにせよ、それでもここで描かれる観念的な境涯は、創作実態としての制作労働の苦心惨憺からは程遠い。ある線や、ある色が見えない、描けないというのが、恐らくは本物の画工の芸であり術であり、たとえば「憐れ」なんていう感傷的な文言にそれを集約できて由としてしまえるのなら、誰も画なんぞ描くまい。

しかしこれは小説なのであって、その限りやはり「憐れ」の一言に至ることが物語の目指すところになるなら、それもよい。言葉は飽くまでそれそのもの足り得ず、いつもそれの輪郭を浮き彫りにすることでしかそれを示すことが出来ない。「憐れ」とは何か。それのことだ。それの何であるかはそれを見てもらうしかない。だからそれを画に描くのじゃないか。(「憐れは神の知らぬ情で、しかも神にもっとも近き人間の情である」とは如何にも言語的な逆説の表現であり、逆説の表現こそは言語と非言語の領域の臨界を示すものでもある。)

放られた屁の数を数えてまわる愚に唾棄してみせる言及にも正しさはありこそすれ、そんな目に遭うのは一つにはそんなものを数えさせてしまう隙を当人が見せびらかしているからでもある(それこそそんな言及をしてしまうこと自体が隙なのだ)。この小説の「画工」にはまだ青臭い遁世願望が透けて見えて、そんなお前も臭い屁は放るだろうと言いたくなる気も確かにするが、たとえばドストエフスキーが描いて見せた人物に、そんなことを言いたくなるか。

「非人情」と言うが、奔放磊落な那美さんのつかの間みせた「憐れ」の表情を、画にする資格、あるいは才覚が本当にあるのは、じつのところそれ見た瞬間に言語を絶して「憐れ」そのものに巻き込まれてしまう人間だけなのじゃないか。それは紛れもない「人情」で、「人情」に揺り動かされない人間に本物の画は描けまい。

ただ、それでもその全てを敢えて小説として書いたのは書き手自身で、であるからこそのその一言なのかも知れず。その一言に如何にして本当に辿り着けるかという道筋の、やはりこれは「物語」。辿り着くべきものに辿り着いたからこそ、物語は不意に呆気なく幕を閉ざす。

『趣味の遺伝』同様、同時代の自国の戦争という現実を決して無視はできていない(していない)。あるいはむしろ、暗にそこにこそ焦点は合わせられていたのかも知れない。那美さんの「憐れ」の表情もまた、出征しゆく想い人へ向けての、つまりは自己の命運を超えた他者の命運への切実な感情の表出でこそあった。