読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

読み書き

読んだものについての覚書

『ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」を読む』(ちくま学芸文庫)野矢茂樹

『論考』の独我論に関する議論、それについての著者の理解には自分には疑問がある。少なくとも『論考』のウィトゲンシュタインはけっして著者の言うような「意味の他者」を拒絶するためにそれを考え抜いたのではなく、むしろ受容する為にこそ考え抜いたのじゃないか。「独我論が貫徹されれば実在論に行き着く」というテーゼは、所謂「他者」の存在を、自分の「論理空間」内の“問題”としては考えず、むしろ“それ自体”として向き合うという姿勢の提示であったのじゃないか。「他者」は無論自分の「論理空間」(=「世界」)内では「意味の他者」としてしか現れ得まいが、『論考』的独我論は、「意味の他者」を“問題”としては拒絶することで、“存在”としてそのまま向き合うべき何者か(それこそ他者そのもの)として想定しようとしたのじゃないか。そこでは、しかし具体的にそれと向き合うありようは記述されなかったがゆえに、のちに具体的な接点を欠いた「ツルツル」と喩えられることになったのだろうが、その根本にあったのはけっして拒絶の姿勢などではなく、むしろ最大限に尊重する姿勢であって、『論考』的独我論は、そのありようの実体(実態ではなく)の探索、提示の帰結だったのじゃないか。

そう考えれば、自分には『論考』で不可解な表現の一つだった「(善き意志や悪しき意志によって)世界は増大し、減少する」という表現も、著者の「(可能性を含んだ)論理空間」と「存在論的経験」の理解と併せて、納得がいく表現になる。確かに、生を全うしようとする(善き)意志によって世界は出会いに向き合う(増大する)ものとなり、生に背こうとする(悪しき)意志によって世界は出会いに背く(減少する)ものともなる。この具体的に量化した表現に納得がいくようになれたのは、著者の「論理空間」に関する読解が了解できたから。『論考』的独我論は、存在論的自己の「論理空間」を最大限主張するその鏡像として、存在論的他者もまた最大限尊重されることになったが、そのために具体的な接点、つまり「意味の他者」は、世界内の現象として存在論的自己の「論理空間」に一元化されてしまったのだと思われる。

ところでしかし、「意味の他者」の「論理空間」は、著者の理解する如くに隔絶したものではないとも思われる。むしろ自己と他者(双方の論理空間)はゆるやかに接続し合っているし、そうでなければだいたい「自己」と「他者」なんて存在の仕方が認識できない。「意味の他者」としてはそうだ。それに比して「存在論的他者」は、無論存在論的には隔絶しているが、それゆえにこそ「他者の意味」を際立たせる観念ともなる。「他者の意味」は、『論考』に於けるようにそれだけが最大限尊重されてしまうと語られざる存在論的自己の鏡像と化してしまうが、それはそれでも、「意味の他者」が「他者」でありうるための限界像でもあるのじゃないか。つまり「存在論的他者」の観念を経なくては、「意味の他者」もその尊厳を本質的に喪失するのじゃないか。