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読み書き

読んだものについての覚書

『この世界の片隅に』(双葉社)こうの史代

こうの史代という作者は飽くまで「漫画」を描く人だと。「漫画」は「映画」でもなければ「文学」でもない。またやっぱり「アニメーション」でもない。平面の紙面上にコマを割って、その内外に事物や人物を描き込んで、何がしかの時制に則った物語りをしてみせる、そういう媒体だと。


漫画のコマからコマへの推移は大体にして時間の推移(あるいはその内部に於ける空間の隔絶)をあらわし、その断続的なつながりの中にやがて読者は「物語」と呼び得る抽象を想定するようにできている。しかし、漫画のコマもその内外に描き込まれる事物や人物も、もとをただせば人間である作者によるさまざまな肉筆の描線だということにまちがいはない。当たり前のことかも知れない。当たり前のことかも知れないが、こうの史代の漫画は、その自覚を地で行く描写をあちこちにちりばめる。

 

この漫画なら、そのセンスは戦時下のさまざまな生活のディテール描写にこそちからづよく発揮されるが、それは絵を描くこと自体を無上の愉悦とするような文字通りの「絵心」に充ちていて、ヒロインたるすずの絵描きの才能も、何よりまずすずの手を通して作中に絵を描き出したいからこその設定だったのではないか。その「絵心」は点一つにさえこもるもので、ヒロインすずの何気ない頬ペタのほくろさえ、その黒子一点あるとないとでは、人物の絵の中での映えかた(生えかた?)がだんぜん異なってくる。

 

そんな「絵心」は、漫画独特のものとしては、作品内の一頁の紙幅全体をまるごと一枚の絵として捉えてしまうような自在さに表れる。コマからコマへの物語的な時制の観念に必ずしもとらわれず、コマの内外に描き込まれた事物や人物の全体で語るべきことを図解さえしてしまうような描きかた。それは恐らく、映画や文学とは異なる物語的な機能でさえあって、その表象のシステムの中でどうしても単線的な物語(時制)しか構成し難いように思われる映画や文学と異なり、漫画は紙幅に許容されうる限りどこまでも世界を細分化し、つまり複線化することができる。

 

だからこの作品の中ですずがその手で描く絵の世界は、そのままありうべき実在の世界なのだと言ってもいい。それがありうべき実在の世界足り得ることは、何よりこの漫画の物語を物語として信じてしまう、つまりすずが描き出した絵の中の世界を現に絵の中の世界のひとびとが信じたように信じてしまう、読者の存在が証する。