読み書き

読んだものについての覚書

『カーライル博物館』(インクナブラPD)夏目漱石

博物館訪問の短い紀行文。カーライルというのは有名な歴史家・評論家らしい。そんなことも知らんで読むが、面白いのはやはり語り口。畳みかけるような言葉の継ぎ方。冗語的になりそうなことも恐れず句読点を越えて文句を重ねて連ねる。接続詞をなるたけ省いているらしいのが文章に即物的なリズムを生んでいる。

『倫敦塔』(インクナブラPD)夏目漱石

夏目漱石が、倫敦塔の記憶を頼りに描く、幾幅もの幻想画。漱石が、生きねば、生きねばと直截な文言を連ねるのは意外。ここでの漱石にとって、「生きねばならない」という命題の基礎となるのは、思うとおり思うようにならざるまま生きることを強いられる、死よりも辛い生の事実。それでも、と。ここでの倫敦塔はそのさまざまに束縛せられたる生の軌跡のふかぶかと刻印せられたる歴史の碑。

『あもくん』(角川書店)諸星大二郎

「ことろの森」負ぶっている子供がいつの間にか何かべつのモノへとすり替わってしまう、という、民話伝承などにありそうな話。従妹の女の子から「あもくん」と呼ばれる守と言う名の男の子。子供は大人とはべつの生き物かも知れないという直観。

「あもくん」古い家の片隅に閉ざされた異界への通路。これも子供を大人とべつの生きものの如く捉える直観の元に描きだされる話。諸星大二郎の描く子供はいつも黙秘することを心得ている。無意識と深くつながっている。子供は自覚もないままいつの間にか大人になり変わる。

「呼び声」森の中で自分達の影と交錯する。これも民話伝承などにありそうな話。諸星大二郎の、キャラクターの同定性さえ記号化されないような錯綜した描線でこそ、こんな単純とも言える話がそれでも作品として成立する。人物や事物の形と影の判別すら曖昧な描線でこそ。

「ドアを閉める」視界の隙間に何かが映っていた、…かも知れないという知覚と錯覚の隙間の話。事物の何気ない隙間がじつは世界の隙間の如く異界を垣間見せてしまう、…かの如くに人物の視界を過ぎる。正視などすれば途端に雲散霧消してしまう、影であること自体が本質であるかの如き、はっきり「現象」とすら言い難い事象。

「猫ドア」猫用の小さなドアが何か得体の知れないものの通路と化していた、という話。これまたドアの話。ドアというものの入口出口として機能するその「口」型の形象自体に「何か」を呼び寄せてしまう要因あるかの如く直観する、魔術的感受性。

「手形」見知らぬ手形が家じゅうのあちこちにふと見るとついているという話。手や足、あるいはその影が人間の体から遊離して自立的にふるまってしまう、などというセンスはこれまた民話伝承的。しかも自動機械のようにではなく人格的にさえふるまうという。魂とは抽象ではなく具象にこそ宿る運動のこと。

「深夜番組」語り自体の入れ子構造が本質の作品。コマの中に描写する空間を巧妙に錯綜させることで主体の所在が夢にあるか現にあるかも判然しない語りをうむ。そして最後のコマで自分が殺人鬼に迫られる図をテレビ画面(それもまたコマ)の中に見ているのは息子。こうなると夢と現以上にその主体が父親なのか息子なのかも判然しなくなる言外の仕掛け。

「帰り道」漫画の描写として肝心なのは最後の頁。何より息子の指摘になんとも言えない表情をして反応する父親の曖昧な肖像。はっきり怖がったり驚いたりしておらず、敢えて言えば当惑したような顔つきなれど、しかしどこか現実感希薄なままに間が抜けている。切実そうな息子の表情とよくコントラストを為す。ここでもまた子供が異界によく(無意識に)通じている。

啓蟄」春先にあらわれる奇体な蟲(?)達の姿。物語のセンスとして妙があるのは、主人公の反応のありよう。驚くでも怖がるでも、笑うでもなく、ただ「見なかったことにしよう」というていで素っ気なく(しかし密かに冷や汗をかきつつ)背を向けてしまうその感情の中間項的曖昧さ。

「雲の横顔」これも言わば“世界の隙間”もの。何気なく浮かんでいた夕方の雲、そのシルエットがさりげなく主人公の視界の端をかすめるようについてくる。夕空から窓枠までパースペクティブなど無視する表層に於ける転位は、漫画だからこそ無理なく描けている。

「雨」ここでの雨は、オノマトペによる表現こそがその本質。つまりは音であり、その表象としての文字。ここでは音がその現象の出自を「雨」と錯覚させる按配になっている。実体としてはじつは雨など降っていない、つまり現象として存在していないのに、それがそれでも「雨」の物語足り得てしまうのは、何よりも音がしたから。(音は“どこ”に響いていたのか。)

「覗く人」二階のトイレの小さな窓、などという如何にもこの世界の端の端みたいな場所から垣間見える異界の影。その窓は、いわば異界へのドアであり、また入口であり、あるいは隙間の媒体でもある。そしてそれは入口である以上同時に出口でもあり、したがって「覗く人」はまた「覗かれる人」としてその目を「出口」に向け直すことにもなる、…のかも。

「幽霊見物」衆人の環視に気が付かないまま見世物のように暗闇を徘徊せざるを得ない幽霊。一方的に見ることの自覚されざる悪意。見ることは逆に見つめ返されることだということ、その恐怖に気が付けない存在こそむしろ幽霊なのかも知れず。(「見えない」存在なのは衆人のほうかも知れず。)ここでも、幽霊の年配女性の顔つきが、なんとも言えない行方知れずの顔つきで、本当になんとも言えない。

「茜空の女」「雲の横顔」に続く挿話に見える。「聖霊」とか「精霊」などという制度的で定型的な物言い以前の、想像力の原型としての「霊」。陰鬱な話の多いこの挿話集の中の清涼剤。主人公の喪服、あるいは「いやな人影」の黒はベタ塗りで、「茜空の女」は細い描線で白く浮いている。

「また、あもくん」これもある種の“隙間もの”(?)かも知れず。つまり心の隙間。呼ばれて応える。とくに「先生」などと呼ばれてそれに応えるということの、無意識の自意識(?)。子供がまたしても無意識遊戯のクレバーな玄人として描かれる。

「エンガチョ切った!」「また、あもくん」に続く挿話。「あもくん」と呼ばれて思わず「あもくんって言うな!」と応えてしまう守少年。やはり心の隙間。しかし少なくともここでは、作者はそれを心理の投影などという仮象としては描かない。飽くまで何かの実在として描く。そして守少年を窮地から救う何者かの存在もまた同様。実在は信じられることなくして実在足り得ず、か。

「見下ろす女」猫を探す青年の幽霊と、それをいつも近辺から見下ろす女。語り部たる男性に声を掛けられたその瞬間の女の顔こそこの短編の全て。なんとも言えない、気持ちいいくらいに気持ちわるい笑顔。物の怪の顔。その女の顔描けずして成立しない短編なだけに、本当に凄い。それと、女が常に「見下ろす女」であること。

「彼女」「雲の横顔」「茜空の女」に続く挿話に見える。シルエットに溶け込むような「彼女」の存在が、やがて「雲の横顔」に帰る。「彼女」の存在自体が、シルエットであり、茜空であり、また雲というぼやけた肖像そのものであるだけに、漫画のコマという確たる縁取りに縁取られてこそはじめて映えてくるようにも見える。

「鳥居の先」最終回だけに、いわば厄払いの挿話なのかも知れない。異界への媒体としての門と、シャーマンとしての子供達の影。出自不明の儀礼の為の儀礼。

諸星大二郎は顔を描く達人。記号化されないままのうねる描線で顔を描き続けることが出来る。『無面目』なんて作品をモノにし得たのもそのセンスあってこそだったかも知れない。「見下ろす女」の女の顔は本当に凄い。少しでも筆の心がブレるとわざとらしさしか印象づけられない筈の、本物の狂気の顔。その作家としての感受性は、どうも意識的に正視することで消えさってしまうような、言わば正気と狂気、もっと言えばこの世とあの世の境のような領域にこそひきつけられ続けているようにも見える。ともあれここまで曰く言いしれないものを描き続けられるのは、そこにひきつけられる感受性が本物だからだろう。

『小津安二郎先生の思い出』(朝日新聞社)笠智衆

記者の聞き取りから起された文章とのことだが、どうしてもあの独特のイントネーションが文章の向こうから聴こえてくるような感じがしてしまう。

謙遜する人柄とは言え、やはり九州男児という感じで、朴訥な中にも最低限の「男」としての矜持は忘れないような頑健さがあるように思える。年齢で言えばただ一つ違いの小津安二郎をそれでも終生「先生」と呼び続けたのも、むしろリスペクトすべき人物を何があってもリスペクトし続ける男らしい律義の発露であったのじゃないか。

題からして「小津安二郎」ありきの半自伝。その映画の定番俳優の眼から見た小津の演出。一言で言えば、小津には頭の中に完全に画面のイメージがあったということ。自分で仕種や台詞をして見せることは少なかったとは言え、実際にしてみせれば完璧にそれを実演できてしまうのは、イメージが完全に描けていたからなのだろうし、それが描けるのは画面という映画の枠組を確実に被写体との関係で捉えていたからだろう。笠智衆が役者として自然な演技をしようとしても、それを敢えてとどめて「構図のほうが大事」と言ってのけてしまうのは、その表れ。

しかしその小津が、『晩春』のラストシーンには「嗚咽」ならぬ「慟哭」の演技を笠智衆に要求したという話は、小津が撮っていたのはそれでもやはり実写の映画であり人間だったという、当たり前と言えば当たり前のことを思わせる。そしてまた、そこで笠智衆がそれを珍しく拒んだという話も、実写の映画ならではの、ささやかなものであれ"ドラマ"であるように思える。そのことを回想する笠智衆が、そのころの「先生」には何かあったのでしょうかと呟くことも、またその"ドラマ"に陰影の一筋を刻むことになる。

小津独特のローポジションのキャメラについては、少なくともそれが「自然」な演技をひき出すようなものではなかったと語る。「心の中を見透かされているようで落ち着かなかった」とさえ。なぜそうでなくてはならないのかという問いには小津は答えなかったのだろうが、恐らくは小津自身はっきりした答えはもっていなかったのかも知れないし、それでいいと思っていたのじゃないか。なぜなら、画面そのものが即ち答えだから。画面そのものでそれを見てそれがいいと感じられるのなら、それが即ち答えだから。また余話的にサイレント時代の挿話もあるが、セリフが字幕で表現される為に役者の中にはごく適当な文句を口にして話す演技だけする人もいたとかで、だとするとそこにはサイレント時代の映画が非心理的な映像主義(と取り敢えず言っておく)であり得たことの条件が垣間見えもする。

昔日の撮影所隆盛の時代、監督は雲のうえの人という感覚が生きていたころだからこそ、小津のような峻厳な才能も活かされ得たのかも知れず。現在同様に映画を撮ろうとしたって、ありとあらゆるものが許容してはくれない(たとえ小津のような画面の真似事は出来ても、それに小津そのもののような魂を込めることは出来まい)。と共に、笠智衆にとっての「先生」がその奥さんにとっては「オッチャン」であったような、そんな鷹揚もまた昔日の感覚でこそあって、全ては時間の堆積と共に神話的な「歴史」の中に埋没していってしまう。

笠智衆が亡き小津安二郎にこの本の中で手向ける、ご結婚なさったほうが良かったんじゃないでしょうか、という一言は、言葉の響き通りにしみじみしたものはある。歴史にはしかし、見えざる可能性が胚胎され続ける。

『吾輩は猫である』(インクナブラPD)夏目漱石

言わば小説化された文明批評のエッセイなので、物語と呼ぶべきものは問題にならない。語り口の妙があって、言葉を乗せる文章の連なりが素朴に愉しい。明治人の文体センスによる機智と諧謔漢語と和語が音読に適するリズムで織り込まれながら綴られる様子は、「講談調」とでも言えばいいのか。

狂言回しとしての猫が一人語りして陳述する文明批評よりも、むしろ登場人物間のああだこうだのやり取りのほうが、より生身に即した機智と諧謔を感じさせて活き活きと弾んでいるように読める。少なくともここでの夏目漱石は、レトリックにもがいているというよりは、それと軽妙洒脱にたわむれてみせている。

敢えてドスト氏と比べたるなら、ドスト氏の世界観にとっての留め金は「神」だろうが、夏目氏の世界観にとっての留め金は「死」だろう。異なるのは、「神」はドスト氏の描き扱うロシア社会にとっては共通問題だったが、夏目氏の「死」は飽くまで個体にとっての実存問題でしかあり得ないことかも知れず。