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読み書き

読んだものについての覚書

『宮本武蔵』(青空文庫)吉川英治

小説(日本)

序、はしがきから、地の巻、水の巻、火の巻、風の巻、空の巻、二天の巻、円明の巻まで、青空文庫で全8巻。巌流島での決斗を決着するまでを描く。

 

1935年から39年にかけて朝日新聞で連載されて戦雲ちかしい当時の時代的な空気の中、大人気を博した作品とのことで、確かに武蔵の哲学的述懐の中には国粋主義的観念に通じる言及があちこちで見られる。十五年戦争中に書かれた(いわゆる)「大衆小説」であるが故にか、剣の道の観念化がそのまま治国政経の哲学にも通じるかの如き描きかたをする。これを原作に物語を映画化した代表作には1961年から65年にかけての内田吐夢監督版『宮本武蔵』五部作があるが、その五部作はあきらかに「戦後」の作としての作劇の細部を具えており、それとの差異を意識すると、小説は確かに「終戦以前」の感覚でつづられている

「終戦以前」。武蔵の求道的な自己実現的観念の道筋のさきに国粋主義的観念を想定してしまう時代性は、確かにある。確かにあるが、「戦後」に於いてそれが棄却されたあとに、では自己実現的観念の道筋のさきに、何が想定できるようになったのかと言えば、それはけっきょく自己実現のための自己実現という隘路でしかないのかも知れない。この小説の「序、はしがき」には、この小説がその一読者だったある画家を、一家心中目前の絶望から救いあげたという挿話が語られ、作者はその影響の甚大に恐縮の念を表明しているが、なぜそんな挿話が可能足り得たかと言えば、それはこの小説の物語がそれでも、信頼に価するように見える観念へと自己を結びつける物語足り得ていたからなのではないか。

内田吐夢監督版『宮本武蔵』は、あきらかに「戦後」の作として、その原作が含蓄している素朴な自己実現的観念に、現実の流血の重み、淀みを作劇の糧としてくわえることでより錯綜的な含蓄を実現したとは見えるが、「そのさき」は、描くことが出来なかった。この原作とて巌流島の決斗に於ける決着を以て物語の完としている点で何もかわりはしないが、青年がこころざしを抱いて自己を実現し得るという素朴な物語の型は何も疑われていないし、「そのさき」には、治国政経に通じる普遍が想定されていたことも判然としていた。

 

物語の前半と後半で、それぞれ武蔵に随伴する年少者の弟子、城太郎と伊織の存在は、一つには武蔵の求道をめぐる観念を具体的な言葉(セリフ)に約して表現するための狂言回し的存在でもあったのかも知れない。だが、巌流島の決斗に際して長岡佐渡が少年・伊織に「(ふたりの闘いを)よく見ておけ」と諭すところなどからすれば、彼らは物語を託すべき次世代の象徴でもあったことにはなるだろう。次世代に託すべき物語は、つまり時代を越えてつむがれるべき普遍を担っていなければならないが、それが「戦中」的な国粋主義的観念を喪ったとき、あとには何が遺ったのか。それが自己実現のための自己実現という隘路でしかなかったとすれば、このような物語を滅んだ虚構として退けることは未だできていないことになる。

『この世界の片隅に』(双葉社)こうの史代

漫画

こうの史代という作者は飽くまで「漫画」を描く人だと。「漫画」は「映画」でもなければ「文学」でもない。またやっぱり「アニメーション」でもない。平面の紙面上にコマを割って、その内外に事物や人物を描き込んで、何がしかの時制に則った物語りをしてみせる、そういう媒体だと。


漫画のコマからコマへの推移は大体にして時間の推移(あるいはその内部に於ける空間の隔絶)をあらわし、その断続的なつながりの中にやがて読者は「物語」と呼び得る抽象を想定するようにできている。しかし、漫画のコマもその内外に描き込まれる事物や人物も、もとをただせば人間である作者によるさまざまな肉筆の描線だということにまちがいはない。当たり前のことかも知れない。当たり前のことかも知れないが、こうの史代の漫画は、その自覚を地で行く描写をあちこちにちりばめる。

 

この漫画なら、そのセンスは戦時下のさまざまな生活のディテール描写にこそちからづよく発揮されるが、それは絵を描くこと自体を無上の愉悦とするような文字通りの「絵心」に充ちていて、ヒロインたるすずの絵描きの才能も、何よりまずすずの手を通して作中に絵を描き出したいからこその設定だったのではないか。その「絵心」は点一つにさえこもるもので、ヒロインすずの何気ない頬ペタのほくろさえ、その黒子一点あるとないとでは、人物の絵の中での映えかた(生えかた?)がだんぜん異なってくる。

 

そんな「絵心」は、漫画独特のものとしては、作品内の一頁の紙幅全体をまるごと一枚の絵として捉えてしまうような自在さに表れる。コマからコマへの物語的な時制の観念に必ずしもとらわれず、コマの内外に描き込まれた事物や人物の全体で語るべきことを図解さえしてしまうような描きかた。それは恐らく、映画や文学とは異なる物語的な機能でさえあって、その表象のシステムの中でどうしても単線的な物語(時制)しか構成し難いように思われる映画や文学と異なり、漫画は紙幅に許容されうる限りどこまでも世界を細分化し、つまり複線化することができる。

 

だからこの作品の中ですずがその手で描く絵の世界は、そのままありうべき実在の世界なのだと言ってもいい。それがありうべき実在の世界足り得ることは、何よりこの漫画の物語を物語として信じてしまう、つまりすずが描き出した絵の中の世界を現に絵の中の世界のひとびとが信じたように信じてしまう、読者の存在が証する。

『野分』(インクナブラPD)夏目漱石

小説(日本)
坊っちゃん」に理智をくわえて世渡りを試みる大人にしたような道也先生に始まり、かつてその生徒だった貧乏書生の高柳君、富裕なその友人の中野君、あるいは道也先生や中野君の細君をも交えて話は進む。

世間を席巻する「金」の道理に対する率直すぎる反感や、それに抗するべくしての教養主義に、現在となっては共感なんてあり得ないとしても、疎外される自意識の話としてならなんの違和感もない。ただ、現在のそんな自意識には、よって立つべき教養主義というよすがもなく、自閉してひきこもる為の「檻」があれこれと(それもまた「金」の道理により)用意されているだけだろうとは思う。またここでの疎外される自意識や教養主義の話は、飽くまで細君や下女といった家庭内労働者の存在あって生息し得る話でもある。

漱石の筆舌は、この作品では少しまどろっこしい。言わんとすることに書き物が引きずられている感あり。それでも、章末に映像的なアクセントを描き加えたりするあたりは小説的。自意識を語りつつ自意識に溺れない。

「金」は本来的に「天下の回りもの」、受け渡されてこその「金」。友人中野君とその細君の善意の「百円」が、高柳君から道也先生にめぐりめぐる。そのことにより物が購われるというよりは、心が救われる。(何某かの交換の代価ではなく、素朴な無償の贈与だからこそ。)

『草枕』(インクナブラPD)夏目漱石

小説(日本)
仮想的な「画工」を狂言回しにした芸術論エッセイ。体裁は一応の筋書を有した小説だが、少なくともこの小説の書き手はエッセイストでしかない。本物の「画工」は労働者だろう。芸でも術でも、観念的な境涯に立つだけで成り立つもんではないのじゃないか。この小説の中の仮想的な「画工」は、飽くまで「見る人」ではあっても「描く人」ではなし。

書き手自身の執筆もその流麗に読める文体の足下に苦心惨憺も潜んでいるのかも知れないにせよ、それでもここで描かれる観念的な境涯は、創作実態としての制作労働の苦心惨憺からは程遠い。ある線や、ある色が見えない、描けないというのが、恐らくは本物の画工の芸であり術であり、たとえば「憐れ」なんていう感傷的な文言にそれを集約できて由としてしまえるのなら、誰も画なんぞ描くまい。

しかしこれは小説なのであって、その限りやはり「憐れ」の一言に至ることが物語の目指すところになるなら、それもよい。言葉は飽くまでそれそのもの足り得ず、いつもそれの輪郭を浮き彫りにすることでしかそれを示すことが出来ない。「憐れ」とは何か。それのことだ。それの何であるかはそれを見てもらうしかない。だからそれを画に描くのじゃないか。(「憐れは神の知らぬ情で、しかも神にもっとも近き人間の情である」とは如何にも言語的な逆説の表現であり、逆説の表現こそは言語と非言語の領域の臨界を示すものでもある。)

放られた屁の数を数えてまわる愚に唾棄してみせる言及にも正しさはありこそすれ、そんな目に遭うのは一つにはそんなものを数えさせてしまう隙を当人が見せびらかしているからでもある(それこそそんな言及をしてしまうこと自体が隙なのだ)。この小説の「画工」にはまだ青臭い遁世願望が透けて見えて、そんなお前も臭い屁は放るだろうと言いたくなる気も確かにするが、たとえばドストエフスキーが描いて見せた人物に、そんなことを言いたくなるか。

「非人情」と言うが、奔放磊落な那美さんのつかの間みせた「憐れ」の表情を、画にする資格、あるいは才覚が本当にあるのは、じつのところそれ見た瞬間に言語を絶して「憐れ」そのものに巻き込まれてしまう人間だけなのじゃないか。それは紛れもない「人情」で、「人情」に揺り動かされない人間に本物の画は描けまい。

ただ、それでもその全てを敢えて小説として書いたのは書き手自身で、であるからこそのその一言なのかも知れず。その一言に如何にして本当に辿り着けるかという道筋の、やはりこれは「物語」。辿り着くべきものに辿り着いたからこそ、物語は不意に呆気なく幕を閉ざす。

『趣味の遺伝』同様、同時代の自国の戦争という現実を決して無視はできていない(していない)。あるいはむしろ、暗にそこにこそ焦点は合わせられていたのかも知れない。那美さんの「憐れ」の表情もまた、出征しゆく想い人へ向けての、つまりは自己の命運を超えた他者の命運への切実な感情の表出でこそあった。

『坊っちゃん』(インクナブラPD)夏目漱石

小説(日本)
文体は軽快。

気になるのはどうしてこんな人物を主人公に仕立てたかということ。直情径行を画に描いたような人物。まさしく画に描いたような。坊っちゃん、一人称で物語の主人公になっているが、あまり深刻に考えないで、只管馬鹿正直を貫く。周囲のアクションに対して受けにまわったリアクションと言うよりは飽くまで攻めのアクションで抗するその動機を構成する内面は、一応あるようで、そのじつ内面そのものを自分自身で意識しないので、むしろ妙に内面が欠落しているように見えてしまう。こんな人物が一人称の主人公に仕立てられるのは珍しいのじゃないか。自己批評的な屈託が内面であるかのような錯覚に陥らず、内面が行動に直結しているからだろうか。その割に文章自体は恣意的な感情や感覚の表現に徒に流されないで綴られるので、視点そのものが図らず周囲への批評になってしまう。(だからこそこういう独り語りをする人物が現実にいるようには思われない。)

言葉そのものよりも、言葉のむこうに透けて見えるかも知れないものに焦点を当てている感じ。またそれと同時に、漱石の文章はどの作品でもそのようだが、方言を如何にも活用して、文字に起こした言葉の響き連なりそのものを愉しんでいる風。